震災で亡くなられた方と遺族の方、お悔やみ申し上げます。避難中の方、頑張って下さい。

 前回の1978年の地震では私は2才か3才で仙台にいて被災した。目の前で倒れそうな収納棚等の記憶は有る。それが倒れていれば命は無かったと思う。
今回は日吉の免震構造建物の点検中で、タイミングによっては死んでいた可能性があった。

 取り敢えず地上に出て家族と連絡。まだ混雑はさほどでは無かったのか数回で繋がり、無事と仙台方面の地震震度7という話は聞けた。もっとも揺れの具合である程度遠くの地震で大きい地震であることは判っていたし、可能性として最も高いのは仙台だったのでやっぱりと言う感じだった。余震があるので点検どころではなく会社に帰るが途中は停電中の場所も有った。
 早出だったので早めに会社を出たが、川崎駅では改札はシャッターで閉じられ、早々に終日運転見合わせと発表された。バスで溝の口に出ようと思ったが、既にどこから並んでいるか判らないほど人で混雑していた。一旦会社に戻って情報収集をしたら、相鉄線が途中駅から復旧したという情報を聞いたので、会社の人と一緒に横浜まで歩いて出た。11kmの距離で2時間位かかった。同じ様に横浜に行く人や、横浜から来る人も多かった。
 横浜駅はさながら被災地のような様相で、通路の脇には座ったり寝ている人で一杯だった。横浜アリーナが宿泊場所として開放されていた。相鉄線は動いておらず、バスも大勢の人が待っていたので、16号線に出て歩いて帰ることにした。途中、電車関係の人が、相鉄線星川駅から運行を開始すると言いながら走っていったので、和田駅に向かうと丁度電車が来て乗れた。電車は湘南台行きだったので、二俣川で海老名方面に乗り換えて大和駅で下車。此処から40分程度かけて歩いて帰る事も可能だったが、一緒に歩いた会社の人に車で送ってもらった。0時には家に戻れた。
 JRは論外として、私鉄の中では相鉄線がいち早く復旧したのは運が良かった。しかしJRしか手段が無い現場や客先に行っていたら確実に帰れなかった。安全を重視することも重要だが、点検した上で徐行してでも各路線単位で復旧することは可能だと思う、私鉄が出来たのにJRがどうして早々に公共交通機関としての責務を放棄したのか解せない。未だに公務員体質が抜けていないのかと思う。

 輪番停電のニュースが流れてきた。瞬間の停電ならまだしも、数時間の停電がしかも何時まで続くのか判らないのはきつい。我が大和市や会社のある川崎は15時20分から19時まで。もろに帰宅時間だし、1時間位は日没後だろう。思ったよりも懐中電灯などの装備が少ない。落ち着いたら装備を揃えねば。